こどもの世界を垣間見た衝撃ー保護者懇談会
昨日の月曜日は、こども達を預けてのようちえん組 保護者懇談会でした。
スタッフと保護者が一堂に会して、日常の活動写真や動画をみながら、どんなことが起こっているのか、どんな見守りがされているのか説明を聞き「信じて見守る」ことについて意見交換などしました。
微笑ましいシーンもあれば
怪我ギリギリ?喧嘩か遊びか⁉︎
心ざわざわ、イジメの芽か⁉︎仲間はずれか⁉︎
これは止めたい、諭さなければ!
と普通なら大人が思うような場面もある。
でも、いしころえん現場スタッフはそこで安易に入りません。
ぐっとこらえて少し待ってみる。遠くから見守り続けてみる。すると
◼︎自然のもので、遊びをつくりだす力。
◼︎本物の命に触れている表情。
◼︎集中しているときのまなざし。
それだけじゃなく、
◼︎棒を持ち一対多数で喧嘩かと見えても、よく見れば傷つけないように攻撃の向きを加減していたり、自分でタイミングをみて和解の言葉を投げかける子もいた。
◼︎「合言葉を言わないと仲間にいれない」と言われたあの子は、はじめはしゃがみこんでいたけれど、周りの1人のお友達の救いの言葉で徐々にエンパワーメントされて、自ら立ち上がり「自分がされてイヤなことは人にはしたらあかんのやで!」と堂々と主張する姿をみせた。
◼︎少し変わったお気に入りの帽子を身につけてきたあの子は、その日みんなに逃げられてしまったけれど、
あとから 2人の男の子が土いじりをしながら 近くに寄り添い、冷静に、やってしまったことについて語り、慰め、最後の最後に「ごめんね」と伝えていた。
そんな姿もみることができました。
すべて少し離れたところから、大人の介入がなく進んだシーンでした。
まるでドキュメンタリー映画を何本もみてるようでした。
おとなが入って一言促したり、ジャッジしたり、不穏な流れを止めるのは簡単です。
だけれど、そうしたら こどもたちは喜怒哀楽 快 不快を感じきらないまま その出来事はぽかんと空中分解してしまう。
自分のタイミングで和解しようとすることも
自分の正直な気持ちを伝えたいという衝動が生まれる瞬間も 事前に奪われてしまう。たぶん そんなケースが一般的なのかもしれません
でもいしころえんでは、そこを邪魔せずにいることで、
そのままですでに完璧なこどもたちの輝き、物語が いくつも生まれている。
今回の懇談会はそんな気づきがいっぱいの時間で、保護者としても感謝や感動で涙も流れました。
信じて見守る
の
信じる
とは、このことなのか?
見守る加減の葛藤ばかりに苦しみますが、
信じる
の価値が解っていないと難しい。
そして、すぐに結果を求めてはいけないことをも思い出させられます。
幼児期のこどもたちはいま、喜怒哀楽 快 不快を目一杯感じて、自分に心があること、相手に心があることに気づくための 大切な1日1日をすごしているそうです。
通常なら大人が「仲良くしようね」と一言で理想に導こうとすることは、人が傷つくことから守ろうとする気持ちから来るものではあるけれど、
その一言と人間社会の現実には本当はギャップがあるし、
その一言でこどもたちから様々な体験、、むしろ一番大切な心の経験を奪っているのかもしれません。もしかして 奪ってばかりなのかもしれません。
大人の目の届きやすい今のうちに、まずはお友達同士で快も不快もたっぷり味わっておくことが、
最近の社会ではこどもたちから奪われがちなことであり、
でもいしころえんでは見守ってみたいことなのかもしれません。
森のようちえんが挑んでいることなのかもしれません。
イジメの芽⁉︎とついハラハラすることもあります。優しい心は育っているのか?と大人は不安になることも。でも、
幼児期から大人のジャッジが早々に入ってしまうことで、じゅうぶんに体で味わわないまま義務教育に入り ◯✖️二択で 頭にだけ入れこまれるから、
10代になってからや 大きくなってからの生きる力に影響してくるのかもしれません。
大人にできることは、
今ここの、さまざまな感情を感じきらせてあげることと
どんな感情や経験にも、寄り添うこと、抱きしめること (見守る)
すぐに結果を求めないこと (待つ)
あの頃どんなぼく私でも ◯してくれてたという記憶をきざんであげること(信じる)
なのかもしれません。
幼児期の彼らはいま、喜怒哀楽快不快とても大切な毎日をすごしています。
なのに、それらを取り除こうとする今日では なかったろうか?
日本のこどもたちがちゃんと「生きている」 毎日だろうか?
自分にも社会にも問いたいと思います。
そして、いしころえんという環境に出会えて良かったと思いました。
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(ようちえん保護者 兼 裏方スタッフ めぐみ)